昭和44年11月29日 朝の御理解 ★  【入力者:岡村和一郎】


御理解第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ」と。


 「氏子十里の坂を九里半登っても」と、十里の坂とは、どういうことを指して、おっしゃっておられるのであろうかと。九里半という意味は、どういう意味であろうか。あー、「十里を登りきって、向こうへ降りたら」とは、あー、どういうふうな意味にとらえたらいいだろうかと。
 また、「向こうへ降りたら安心じゃ」とおっしゃる安心とは、だ、どこが、ど、どういうことが安心だろうかと。ここで気を緩めると、とおっしゃる(今?)、どういうことかと、今いろいろ、うー、思うていますと、それぞれの信心で、えー、いろいろ(頂ける?)わけでございますけれども、まあ今日は私が、この81節から感じられることを少し聞いて頂きたいと思う。(咳)

 ★今朝、ご祈念中に、うーん、なんかお野菜です、こう身を切って、それがだんだんこう伸びていく、生き生きとしたその、おー状態を頂くんです。だんだんそれが伸びてまいりまして、えー、(あと?)あの形が整うてまりましたら、あー私が、えー、えー野菜を作ったことも、何もないから分かりませんけれども、確かにごぼうの葉だと思いました。 もうごぼうの(?)、私が、あー心眼に頂きます、そのくらい伸びたら、もう相当、根も入っておるころだろうと。根が(?)いわば、その(?)、なんて言うんですか、この空気中にあるオゾン、ね、かなんかと言いますね。その用法を、おー空気中から葉が吸い取る(?)というのが、だんだん、(勢い?)えー、青々として芽が(?)とこう伸びて、えーいくわけです。きれいに横に伸びていくわけです。

 それが、えー頂き、うーん、(?)ですね。(?)なくなってくると。もう、なら枯れたようになってくる。(根?)はだんだん生えてくる、(?)だろうとこう思うんですが。(ごぼう?)を例えば、この(?)さん方のごぼうも、有名なごぼうどころですから、もうそれこそ両方の手をこうするほど、おー長い何尺もあるような、ごぼうが入りますわけですね。
 だんだん、この、おー種がまかれて、そして、芽が出て葉がだんだん伸びきるだけ伸びて、もう(生えるだけ入って?)、そして(?)葉が枯れた頃に、ですから、(どっかそこん?)時期はよく知りませんけれども、まあ、ああ、掘りあげられるわけでございますね。
 そういうような、あー情景を頂いて、どんなことだろうかと思うておりましたら、81節のここんところを頂き(ます?)。そこでそれを、(あー?)私の信心で、えーー、感じさして頂くことなんですけれども。
 はああ、自分の坂というのはこういう意味だなと、九里半というのはこういうことだなと、まあ、おぼろげにこう、分からしてもらい、感じさして頂いたことなんです。

 私昨日から、しきりにそのことを思われておることに、今日の朝、んー、私、んーーん、(一通り?)お届けが終わった後で、こんなことを(書いてみました?)。そして、んー、これを一つ、今度の、んー、まあ看板を作ってもらって、こんなふうに書いてもらおうと思うて書いたんです。こんなふうに、あ、(見え?)見えますかね。(はい?)。

 「人の幸せと世のお役に立つために躍進する金光教合楽教会」ていうふうに。これまあ、合楽に限ったことじゃない。そりゃ金光教というてもいいわけですよね。けどやっぱ実感的には、私、または、その、おー、中心である私と同時に、教会全体、合楽の教会全体が、こういう働きに、にー、なっておらなければならないということなのです。
 人の幸せと世のお役に立つために躍進しておる。この教会はそういう働きをしておるんだ、またさせて頂きたいという願いを、こうして掲げておるわけでございますね。

 私は、私どもが、あぅー、十里の坂を九里半登ってもと、安心しちゃならんとおっしゃるのは、こういうような心がです、ほんとに止むぬ止まれん思いでです、私の心の中にいっぱいできるようになるところまでだと思うですね、信心は。ね。
 人の幸せのため、世のお役に立つために、そういう御用にです、お使い回しが頂きたい、そういうお役に立ちたい、立ちたいと念願する心がです、私ども心の中に育ってまいります。 そこまでが、私は信心だと。ね。
 そこまでまいりますと、いわば安心じゃと。それが、あー私どもぐらいの(信心?)じゃない、神様が安心してくださるのじゃないかと、こう思います。ね。向こうへ降りたら、それで安心じゃというのは、神様が安心じゃと言うてくださっておるのじゃないかと、こう思うのです。ね。

 あの氏子もあそこまで育ったから。ね。そこで、私どもの心の中にです、ね、いわば信心の(芽?)というか、葉というか、そういうものがですね、いわゆるその空気中にある養分を、本気であの、吸おうとしておる、いうなら野菜の働き。ね。
 そういう生き生きとした、求めて求めて止まない心というものがです、できてはじめて、(両方が?)、あー、立派なものになってくる。ね。
 それを求めるためには、あらゆる修行も厭わない。分からして頂くことのためには、修行を厭わない。私は昨日、うーん(?)、皆さんがテープを聞かれるのに、いつもあの小さな机の前で窮屈に、(?)書いておられるのを、昨日ばっかりはその、(せっ、じつ、に←切実に?)、実感しましたから、あの大きな机を、あの隅に持ってこらせましてね、(それ点灯ばん?)中において、えー、あれを囲んで、皆さんが朝の御理解なら朝の御理解を一生懸命、自分の頂き所といったようなものを、書いて持って帰られる。

 まあ、その(?)して、そのー、おー、教典と雑、えーメモをするもの、雑記帳なんかを、筆記道具をちゃんと持ってみえられますけれども、もう、もう(?)からお参りする方は、(毎日?)日参するっちいうわけじゃないし、月に何回しか参らない(この?)人達もありますし、(とくに日参組?)もやっぱりありますけれども、本気でけいこしよ、その(雑念?)を持って帰るという人は少ないわけです。
 それでも、やっぱ御理解頂いて帰りますと、(やっぱ?)聞いただけじゃいかんから、(これをここは?)と思うたら、私は控えて帰ってもらいたいと思うて、あすこに、えーメモをする用紙と、だから筆記の鉛筆を5、6本準備させましてね。
 で、昨日私、(旗崎の?)教会のご大祭に(?)もんですから、私がおかげ頂いて、ちょうど二時すぎだった(か?)、帰ってまいりましたら、あー、その、あの大きな机の周りに7、8人の人達が取り囲んで、一生懸命御理解を頂いて、いわゆる勉強するようにして、(?)から、っはあっはあ、お役に立っちょんなと思うて、有り難いと思うたんです。ね。

 (?)がですね、ほんとにお役に、その立たなければいけん。ね。それで、そういう、その準備をした、そじゅ、ま、まあ設営というほどのもんじゃないですけれども、えー、あー、私も満足、また勉強しておらる方達も、勉強がしよい。ということに、まあ、なり、また、そう感じたんです。ね。
 ですから、私どもがそこに、いろんな、あー創意工夫、させて頂いて、えー、人の幸せと世のお役に立つために、私どもが、あー、おかげを頂きたい、おかげを頂きたい、お役に立ちたい、立ちたいという、念願を立てますとですね、どーしても、求めて求めて止まない心というものが、それには伴うてくるん(だそう?)です。
 お役に立ちたいけれども、力がない。ね。お役に立ちたいと思うけれども、おー、う゛ん、思うばかりで、思うことは(?)任せないということではつまりません(のです?)ね。

 昨夜のご祈念に、善導寺の久保山さん(が、?)お参りになりますが、夕べ(の?)お届けされます。今朝方、ご紋を頂いとる。先生から何かこう、おー、小さいこの箱のようなものを頂いとる。よく見るとそれには、箱に(「花頂」?)と書いてある、石けんでございましたと、こういう。
 親先生から頂いたその小さな箱が、きれいな箱に「花頂」と、花頂とは、(にっか、あーゴムの「か」?)という字ですね、花。草冠の花。「ちょう」というのは頂点の頂ですね。山の頂点とこう申しましょう。頂点の頂、という字がはっきり書いてある(?)、「花頂」という石けんを、親先生から頂いたお知らせを頂いたと、こういう。ね。

 限りなく美しゅうならして頂く、限りなく改まらして頂くということを、まあ、(?)するなら、久保山さんの場合には、総代の御用を頂いておられる。まあいうならば、ここ、ま、ここのご信者さんの中では、まあ、あー信心の(?)のお役に立たして、久保山家においても、一番最高のところを通っておられる方達、方なんです。ね。
 それでもですね、それでも、やはり、ね、いわゆる「花頂」です。けれども、いうなら、美しゅうなるとか、ね、(?)改まるとかという、磨いていくという、いうことにおいてはです、ね、もう限りがないことぞと。
 しかも、親先生が(そのくださるってことは?)、親先生が頼んでござる、いうならば、神様が頼んでござるという感じ。より美しゅうなってくれよと、より磨いてくれよと。しかも、最高の(石けん?)をもって、え一つ垢を落としていってくれよと、(もう落としたけんで?)というのではなくて、限りなく、そういうことを、を、求めておられるようなものを、その中から、あ、感じさせて頂きました。ね。

 お役に立ちたい、ね、お役に立ちたいと願いましてです、まあ私がいつもの例に申しますように、神様の御用、神様がままになられることのために奉仕するとでも申しましょうか。ね。
 神様の願いが地上に成っていく、地上に成就していく。そのための、手にもならしてもらおう、足にもならせて頂こうというのである。そんためには、その手が、足が強うなからなければならんと同時にです、ね、神様がままにならんための、いうならお給仕でもさせて頂くようなものなんです。

 ですから、お役に立ちたい、お役に使うてくださいというても、ね、手は(なえとる?)、足は、あー動かんというのであっては、できませんでしょ。お給仕をさして頂く(おぼんを向こうさ?)出してもです、神様(もういっぱいむほんせがれ?)というて、奉唱さして頂いてもです、顔は汚れとる、着物は汚い、あー爪は伸び放題と、例えばいうような格好でです、(どうぞいっぱいのせがれ?)と言うたって、(んなら?)お願いしましょうという気色すら起こってこない。
 いわゆる、御用に立ちたい、立ちたいというても、その人が汚かったら御用に使われるわけがないのです。ね。限りなく美しゅうなることに、(いや?)努めもいたします、改まりもいたします、磨きもいたします。力をもっと使うて頂くためにいよいよ、力を頂くための修行もいたしますというて、その力を頂き、いうならコザッパリとした姿、形をもって、お役に立ちたいという願いを持たしてもらって、初めて、神様がほんとに御用に使うてくださるのじゃないでしょうか、お役に使う、つってくださるのであると、私は思います。ね。

 人の幸せと世のお役に立つために、私どもが奉仕することに喜びを感じさして(いけば?)、そこにほんとの生神を感じさしてもらうというような、心の状態ができるところまでが、私は十里の坂を登ったところではないかというように思います。
 まあだ自分のことでいっぱい、まあだそんな段じゃなか、人の、人のため(なん?)じゃない。ただ、自分が苦しいから一生懸命参っておるのだという、お参りをしておる中に、そういう信心の、おー、本当の神様の願いというようなものをです、私どもが、あー、頂き留めさしてもろうて、おかげを頂かなければならんということなん。

 そして今朝、私がご心眼に頂いた、ごぼうが成長していくその様子というものを、おー心眼に拝まして頂いて、この81節を頂かしてもらう時です、なるほど、ごぼうというお野菜というものは、ね、長くあれは苦労しておる。ね。
 ごぼうっちゅうのは、(しらがもちぬたぬたらあかん)。(ああ、これっ?)、(ごんぼん?)ごたるあるち、色ん黒か。(というようにね?)、苦労ということは、私は、信心ではそれを「修行」という。長い修行て。ね。
 だっ、それも、もう、その、葉が空気中から、あー、養分を吸うなら、根は地中から、地の中から、どろの中から、養分を吸い取って、みごとなごぼうが、あー、できあがる。あまあ、なんち言うっすか、ああ、ごぼうが、まあできるわけですね。

 そこででも、ごぼうの、も例えば、ああー、あの、うーん、ごぼうが、あお互いに、いーあの、ごぼうというものが使われるかというと、もうごぼうというお野菜だけは、もうどういう時にでも使われるんです。ね。しかも、そのごぼうだけはなしにはでけん。ね。
 がめ煮を作っても、やっぱごぼうが入っとらにゃがめ煮らしゅうない。キンピラどんを作りゃ、お弁当のお菜にも、日々のお惣菜にもいい。(ご神事ごと?)には、ごぼうはなしにはできんお野菜。いや、仏事ごとにでも、ごぼうなしにはできんお野菜。ね。
 ごぼうのない、えー料理なんて、もうないぐらいである。いうならば、広い範囲に使われるのがごぼうというお野菜だと、こう思うです。ね。

 そこで私が今日申します、お役に立つということ。どのようなことにでも、ね、人の、世のために、ね、人間の幸せになっていくことのためにです、私どもが奉仕をしようと思うてもです、ね、それが思うだけで、(思う言う任せず?)というんではなくて、ね、(住民の?)お役に立てれるおかげを頂くためには、この長い修行が必要になってくる。
 ごぼうのような、やはり修行が、3年よりも、5年後よりも10年、20年と、信心の修行が必要になってくると。そこで、信心の修行とか苦労とかと、こういうことだけでは、まだまだですけれどもです、ね、そこに、(伸びていく?)喜びというか、ね、もっと育っていく、その有り難さというものを、を、自分の身につけていく。
 いわゆ信心が楽しゅうなる。信心が有り難うなる。しかもそこにです、ね、力が蓄えられていくということは、その力そのものは、人の幸せのために世のお役に立つことのために、(ぎょうし?)されるんだということをです、私どもの生き甲斐と感じさして頂けれるほどしの信心がでけたら、もうそこで九里半のところでよかろうか、もうこのへんでやめとこうということはない。ね。後戻りすることがない。

 ただ、おかげを頂かなければならんために、ね、どうぞ、おかげをください、おかげを頂いたら、ああもしましょう、こうもしましょうというようなことでは、おかげを頂いて、神様にそれが嘘になる、(埃?)になるようなことがある。ね。おかげを頂いたら、(やんなくて?)。
 そこのところの、私は、お役に立つことのために、だからおかげを頂かなければならんということになる。おかげを頂いたら、(いたる?)のではなくてね、お役に立つことのために、健康も、ね、経済の上においても、人間の上においても、ね、人間が豊かに、美しゅう立派になる。お金ですむことなら、(なんぼ?)でも、お役に立つことのためなら使わしてもらいましょう。
 力がいるなら、私の腕を使うてください、私の力を使うてください、というようにです、あり余る力を頂かしてもらう。ね。そのことに私どもが躍進していく信心。

 私は、今日はね、これは私の信心で、まあ81節からそのように感じ取らせて頂いた。まあ、いつも頂きますね。もうこれだけの教典(の中?)ですから、もう繰り返し繰り返し、そのままに(いい角度?)から頂きますけども、今日はそのような、私は、人の幸せと世のお役に立つことのためにです、躍進さして頂こうと。ほんとそのために信心を身につけさせて頂こうというような気持ちが、心の上に育ってくる、そういう気持ちが頂けてくる。そのことが止むに止まれぬ思いで願われる。ね。
 そういう願いに立っての信心にならして頂いた時に、ね、向こうへ降りたら安心じゃと、そこまで(ひじゅう?)のことをもう一つ乗り越えて、人の世のために、人の助かることのためにという、そこに一つのものを乗り越えたところの姿が、そういうことではなかろうか。
 そこんところに、そこまでいくと、私ども自体も安心だけれども、まず何と言うても、第一に、神様が安心してくださるのではなかろうかと。こうなら後へ戻る心配がない。ということになるのだと思います。

 「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならん。十里を登りきって向こうへ降りたら、それで安心じゃ。気を緩めるとすぐ後へ戻るぞ」と。もういろいろに頂けます。ね。いろいろに、えー頂けるみ教えですけれどもです、今日は私は、ね、ごぼうの、おー、成長していく正体、それを私、私どもの信心が成長していく状態に感じさしてもらい、それからごぼうの性質から、ね、広い範囲にお役に立つお野菜。
 私どういうような御用にでも、広くお使い回しが頂けるほどしの、内容をです、十分に頂かしてもらえれるおかげを頂きたい。ためには、私どもがいよいよです、ね、もうほんとに、えーこればおかげを頂かなんならんけん参りよるとと、という時代もあっていいでしょう。
 けれども、話を聞いて助かる道であってみればです、話を聞いてほんとの助かりということになってくると、ほんとの助かりを求めて、ということになってくるとです、今日私が申します、いわゆる、ほんとに神様が喜んでくださる、いわゆる、神様がほんとにままになってくださる、ことのために奉仕さしてもらう、私自身が助かっておる。そういう助かりでなからなければならんと思う。

(沈黙)

 それには、どうしても、えー登って行く、登って行く楽しみ、そのことはやはり苦労である、やはり辛い。(平道を歩く?)ようなわけにはいけん。ね。けれども、登って行くということによって、自分の、いわば視野が開けてくる。
 「花頂」。久保山さんが頂いておられる、ね、その「花頂」を目指す。ね。いうなら、頂上を目指す。楽しい。それは、ほんとにきついことではあるけれども、そのきついことがまた楽しいという信心。
 そういう信心を身につけさして頂く。ね、そこには、えー、神様も安心してくださる信心。向こうへ降りたら、それで安心じゃ。私どもが、ね、求めに求めて、その求めるものが尽き果てた時、私達の命が、いわば尽き果てた時。
 けれども、その(実?)だけは残る。随分なごう入った、このなが、長い芽は、ね、例えば私どもが、んなら尽き果てたその後にでも、そのごぼうが、いうなら世のお役に立ちますようにです。ね。
 私どもの信心が何かの形でです、ね、(むこうあし?)で頂けるほどしのおかげを頂かしてもろうたら、それが、いうなら(後の?)山でもお役に立たせて頂くおかげを頂きたい。そういう念願を持っての信心に取り組みたいと思います。どうぞ。


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